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【古九谷に見るキリスト教文化】謎の多い古九谷の誕生
Christian Culture in Ancient Kutani: The Enigmatic Birth of Ancient Kutani
加賀藩3代藩主・前田利常が奨励した古九谷の制作が、江戸時代の禁教下で日本・東洋文化と巧みに融合した文化的な宝として再評価されました。
前田利常(まえだ としつね)は、江戸時代初期の武将・大名。加賀藩の第2代藩主。加賀前田家3代。
文武両道の志から、利常は江戸幕府に対し、文化の力をもって立ち向かいました。そのため、古九谷プロジェクトが始まると、江戸では生産されていない色絵磁器という新しい芸術ジャンルに挑戦しました。その結果、大胆で斬新な様式に美しさと深い思想が結びついた作品が生み出され、戦略的な意味を持つことが示されました。
1637年には、佐賀藩が有田から日本人陶工826人を追放しました。この追放の背後には、キリスト教信仰者の排除があったと考えられています。同年、利常は長崎と平戸に御買手を派遣し、古き唐織の切や茶道具の購入を指示しました。この際、追放されたキリシタン陶工と接触し、色絵磁器の技術を導入する契機となったと見られます。
最近の科学的な顔料分析からは、1630年代からイエズス会宣教師を中心にしてヨーロッパ由来の顔料を用いた色絵磁器の開発が行われていたことが示唆されています。これにより、古九谷が「マリア観音」の進化形で、東西のモチーフに共通する属性を基盤とした、暗示的なキリスト教信仰の記憶媒体として構想された可能性が高まります。
このように、わずか50年で姿を消した古九谷が、隠れキリシタンによる暗号だった可能性が浮かび上がります。まさに、日本版ダ・ヴィンチ・コードのような謎めいた歴史が、加賀藩の高山右近ゆかりの地で織り成されていたのです。
色絵鳳凰図平鉢(いろえほうおうずひらばち)
「石川県立美術館の一室で、目を引く色鮮やかな鳳凰(ほうおう)が舞い踊っています。その名は『色絵鳳凰図平鉢(いろえほうおうずひらばち)』。江戸時代の17世紀、古九谷(こくたに)の作品です。
この作品は「古九谷プロジェクト」の象徴とされ、モチーフにも無駄がなく、大きな鳥の脚がクロスさせられたポーズには、休息の意味が込められています。ところが、その斬新な表現により、休息ではなく「救済」と読み解く提案もあります。
なぜ鳳凰が選ばれたのか。東洋の伝統では鳳凰は聖徳の天子の誕生を告げる存在とされ、キリスト教の文脈では「鳳凰」が「洗礼者ヨハネ」として解釈される可能性があるという興味深い視点も紹介されています。
作品の裏面には牡丹唐草(ぼたんからくさ)が描かれており、これは百花の王である牡丹がキリストを象徴しているとされています。更に、裏には『祐』という文字が見られ、「天地神明の助け」を象徴。そして、これらの要素が組み合わさり、作品には深い意味が込められているかもしれません。
一方で、「古九谷」には多くの謎が残っています。「古九谷」は「最も豪華で力強く、最も魅力がある日本の色絵磁器を代表するもの」とされ、加賀百万石の前田家が隠れキリシタンと共に制作に関与していた可能性も浮上しています。
産地論争
古九谷の魅力に触れる中で、「産地論争」と呼ばれる謎も浮かび上がります。「幻の古九谷」とも呼ばれるこの時代背景は、加賀藩の支藩である大聖寺藩の初代藩主、前田利治の時代に遡ります。
古九谷の始まりは九谷の山中で金山を営んでいたところ、近くに陶石を発見し、利治の命を受けた藩士の後藤才次郎が備前有田で技術を習得し、1655年に九谷で窯を開いたとされています。しかし、「再興九谷」と呼ばれる1800年代に再び窯が築かれるまでの間、数十年の間に窯は廃止されました。
この「再興九谷」に対して、「古九谷」は廃窯前の初期の色絵磁器を指します。しかし、この時期の事実は未だ解明されておらず、その謎めいた歴史が多くの人々を引き寄せています。
興味深いのは、加賀百万石の前田家が、隠れキリシタンとも関わりながら「古九谷プロジェクト」を推進した可能性です。このプロジェクトによって制作された作品が、洗礼者ヨハネやキリスト教の象徴を表現しているとの見解もあり、鳳凰の伝統的なイメージがキリスト教の文脈で解釈される興味深い展開となっています。
古九谷にまつわる謎と魅力に迫りましたが、まだまだ解明されていない事実や仮説が多く残っています。古九谷は歴史のロマンに包まれ、その謎めいた美しさが多くの人々を引きつけてやまないのです。
「古九谷」は加賀ではなく、有田で作られていたのではないか
佐賀県の肥前有田との関連性も深まり、古九谷にまつわる産地論争が次第に複雑なものとなっています。有田はわが国最初の磁器窯を開いた土地として知られ、1640年代には色絵磁器の制作に成功していたとされています。しかし、有田の山辺田窯跡や丸尾窯跡から古九谷様式の白磁素地と色絵磁器片が出土したことが、新たな疑惑を呼び起こしています。この事実から、「古九谷」は加賀ではなく、有田で作られていたのではないかという説が浮上しています。
加えて、東京大学本郷構内遺跡で発掘された古九谷様式の色絵磁器片が、化学分析の結果、有田ないし伊万里焼の素地であることが判明したことで、「古九谷」産地論争は一気に盛り上がりを見せています。このような出土事例から、一部で「古九谷」の制作が有田で行われていた可能性が浮上していますが、同時に九谷でも色絵磁器の制作が行われていたという事実も明らかになっています。
この産地論争は、「古九谷」がいつ頃、どこで始まり、なぜ急速に作られなくなったのかといった重要な問いに対する解明が求められています。
「古九谷キリシタン関与説」
「古九谷キリシタン関与説」というものがあります。
この説によれば、古九谷の制作はキリスト教の思想を含意し、幕府に対するデモンストレーションとして展開された可能性があります。
また、加賀藩前田家の文武二道の精神や美術工芸の発展が、軍事技術とも表裏一体な関係にあったことが明かされています。美術工芸は軍事戦略的な側面を持ち、漆などの技術は武具や甲冑の製作に活かされていたとの指摘があります。さらに、前田家の文化政策においては、幕府に対して攻撃的な姿勢が示され、キリシタンの思想を取り入れた古九谷がその象徴となっていた可能性が浮上しています。
「文武二道」の思想やキリシタンの関与、軍事技術との結びつきなど、古九谷の制作には多くの謎が残されています。
「古九谷」の中国風な絵柄
また、「古九谷」においては、後になるほど中国風な絵柄が出てきたとされており、初期の「古九谷」はキリスト教的思想を含意していたとされています。前田利常が亡くなった後、同じ技法で同様の作品が制作されましたが、これらは初期の「古九谷」とは異なるものであり、中国風の要素が強く表れています。この変遷から、初期の「古九谷」は前田利常の文化政策やキリシタン関与によって生まれたものである可能性が浮上しています。
産地論争の中で、古九谷の制作が有田で行われていたとの説も登場しており、有田町西部の窯跡からの発掘品がその根拠となっています。しかし、同時に九谷でも色絵磁器の制作が行われていたことが明らかになり、謎は一層深まっています。古九谷がなぜ急速に作られなくなったのか、そして有田との関連性はどのように解釈されるべきか、これらの問いに対する解明が今後の調査や研究で期待されています。
「古九谷様式」
「古九谷様式」は、一応「古九谷」の一部であるとされていますが、ここで混乱が生じます。例えば、有田で見つかる作品は、「古九谷様式」であり、年代的には初期の「古九谷」とは異なるものとされています。初期の「古九谷」と後の「古九谷様式」は、明確に区別され、キリスト教的な読み解きができるかどうかが線引きのポイントとされています。
また、「古九谷様式」は1800年代から加賀で始まり、それぞれの窯に典型的な様式があります。しかし、同時に彼らは古九谷らしきものも制作しており、美術館や博物館に所蔵されていることが複雑さを増しています。これらは「古九谷様式」や「古九谷写し」と呼ばれ、初期の「古九谷」とは一線を画すものとされています。線引きのポイントは、キリスト教的な読み解きが可能かどうかです。
有田説では、1660年頃に柿右衛門が登場し、「古九谷」は途絶えたとされています。しかし、この説には疑問もあります。有田が本家本元であれば、なぜ「古九谷」が有田で続かなかったのか、また、加賀に高く買わせている理由がありません。この点から、「古九谷」が有田で生産されていた可能性は低いと考えられています。
また、有田でのキリシタン追放が「古九谷」制作の背後にある可能性があります。島原の乱の前に有田で追放された日本人陶工は、長崎で技術を生かし、そこで加賀藩の接触を受けたとも考えられます。これが「古九谷」の制作に結びついた可能性があり、その後の歴史的経緯や文化的背景を考慮することで、「古九谷」の謎に迫る手がかりが見えてきます。
追放されたキリシタン陶工との接触を図った
キリシタン追放後、加賀藩は藩主の命で「御買物師(おかいものし)」として藩士を長崎に派遣しました。これは、藩士を町人風に変装させて派遣し、茶道具や中国の古織物などを買い漁り、追放されたキリシタン陶工との接触を図ったものでした。茶道具や色絵技術など高付加価値な技術がキリシタン陶工と関連していたため、加賀藩は彼らの技術流出に神経を使っていたと考えられます。このような歴史的背景から、前田家は公式には加賀藩士ではなく、町民風情で接触を図ったとされています。
キリシタン陶工の技術や文化
「古九谷」の制作には、キリシタン陶工の技術や文化が深く関与していた可能性が浮かび上がってきます。前田家がキリシタン追放によって加賀に呼び寄せた技術者たちは、キリスト教的な意匠を込めた磁器の制作において重要な役割を果たしたと考えられます。彼らの活動は、単なる芸術制作だけでなく、対幕府のデモンストレーションや文化的な攻撃の側面も持っていた可能性があります。これによって、「古九谷」の謎に迫る手がかりが一層鮮明になります。
追放された日本人陶工たちは、長崎などで生計を立てながら、技術を継続していた可能性があります。特に、加賀藩が「御買物師」として派遣した者たちが、彼らと連絡をとって技術の取得を試みたと考えられます。この時期、茶道具や古い中国の織物などを買い漁り、それが藩の記録に残っていることから、加賀藩が色絵技術の流出に神経を使っていたことがうかがえます。
また、キリシタン陶工が加賀に移住したことが、九谷焼に残る九州方言の謎を解明する一助となります。これは、彼らが移住先で新たな生活を始める際に、九州方言を持ち込んだ可能性が考えられます。これが、なぜ加賀地方で九州方言が残っていたのかという謎を解明する手がかりとなります。
このように、古九谷の制作とその背後に潜む歴史的背景は、磁器産地論争やキリシタン文化の影響など、多くの要素が絡み合っています。そのため、古九谷はキリスト教的な思想と美術工芸、軍事技術が結びついた産物とも考えられ、その複雑な歴史は解明が進むにつれて新たな謎が浮かび上がっているようです。
キリシタン陶工が加賀に移住し、その際に九州方言をもたらしたことが、なぜ加賀地方で九州方言が残っていたかの謎を解明する手がかりとなります。この言語的な要素も、古九谷の歴史とその影響を理解する上で重要な一面です。
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